グイノー。ジェラール神父の説教
2013 C 年
年間第23主日から
王であるキリストの祭日まで
年間第23主日
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年間第33主日
王であるキリストの祭日
年間第23主日 C年 2013年9月8日 グイノ・ジェラール神父
知恵9,13-18 フィレモン9,10、12-13 ルカ14,25-33
「全身を尽くして、神を愛する」ことを旧約聖書が厳しく要求しても、私たちはそんなに驚きません。 しかし今日イエスがもっと実行しにくい事を私たちに求めるとき、私たちの耳が痛いし、大きく動揺します。 私たちに不安を与え、惑わせるこの言葉を受け止め、理解するためには、イエスの勧めに従って、先ず時間をかけて座る必要があります。 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(ルカ14,26)とイエスは忠告します。
私たちは利益を求めない心で愛することができないので、自分たちの日常生活の中で神を第一にしていないのです。 そういう訳で、自分の考え方や、行い、生き方を完全に逆転することをイエスは私たちに求めておられるのです。 実際、神はその救いの計画において、私たちを第一にしておられます。 永遠の昔から神は絶えず私たちのことを考えておられます。 私たちに必要なことを神はご存じですから、神の摂理は絶え間なく私たちを助けに来てくださいます。 「わたしたちの命は、キリストと共に神の内に隠されているからです」(コロサイ3,3)。
私たちは、自分の命や自分が愛する人々よりも、神を根本的に大切にするように招かれています。 キリストの真の弟子となり、愛の完成に辿り着くためには、他の選択の余地はありません。 確信を持ってキリストを選ぶことは、他の人々や、自分の命をないがしろにするということではありません。 むしろ、大切にする人々や自分の命が、神の望まれるようになるために、それらを愛することなのです。 イエスは人に対する私たちの愛情や友情を廃止するためではなく、それらを清め、変化させ、聖化するために来られたのです。
「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」とイエスは断言します。 イエスにとっては私たちを苦しめる物事は命への道となるのです。 私たちが試練に打ちひしがれ、よろめきつつ歩く時、復活の喜びへと辿り着くこの道を、イエスがすぐ傍にいて、私たちと共に躓きながら歩いていることを忘れてはいけません。 イエスに従うことは息の長い冒険であり、終着点まで辿り着かねばなりません。 神への絶対的信頼なくしては、信仰と希望のうちに耐え忍ぶことは至難のわざです。
「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」と、イエスの鋭い刃のような言葉が3度目に降りそそがれます。 そのためによく考えるように座ることが必要です。 イエスに従うのは容易なことではありません。 一度始めたことを最後までやり遂げない人は、始めない方がましです。 キリストだけが唯一の支えでなければなりません。 その他のものは、命の道を歩む私たちにとって邪魔と躓きにしかなりません。 キリストの弟子であることは真の愛を選ぶこと、即ち、より豊かに自分を生かすものを選ぶことです。 真の愛、それは神ご自身です。
「命を失うこと」それは、神だけが自分の命の絶対的な支配者であると認めることです。 「命を失うこと」それは、自分の欲望の満足よりも、神が望まれることを優先することです。 欲望を退けることは簡単ではないので、イエスは敢えて、それを担うべき十字架にたとえられます。 実際、唯一の豊さである神に結びつくために、自分自身を捨てることを学ぶ必要があります。 自己放棄なしには、私たちは気がつかないうちに、自分の個人的な関心事を神と取り違える危険があるからです。 ですからイエスは自分自身を捨てることが、解放であると、強く主張しています。 この解放によって、聖霊が私たちのうちに効果的に働き、その結果、私たちは平和と喜びのうちに神のみ旨を行うことができるようになります。 アーメン。
年間第24主日 C年 2013年9月15日 グイノ・ジェラール神父
出エジプト32,7-14 1テモテ1,12-17 ルカ15,1-32
ファリサイ派の人々は、イエスがいつも胡散臭い人と仲良くすることを非難しています。 「この人は罪びとたちを迎えて食事までしている」(ルカ15,2)とファリサイ派の人々は不平を言い出します。 言い換えれば、イエスは胡散臭い人と手を組んで彼らと過ごしているので結局イエスは彼らの共犯者だ、とファリサイ派の人々が言っています。 ファリサイ派の人たちは人を侮蔑的に見下して、彼らを軽蔑し、その人を悪い者とします。 またファリサイ派の人々はイエスのたとえ話を聞く時に「失われた羊」、「失われた銀貨の1枚」、「失われた放蕩息子」という言葉だけを聞くのです。 せっかくイエスは「見つけられた羊」、「見つけられたお金」、また「生き返った死者」のために準備している祝いの食事を大勢の人々と分かち合っている喜びについて話しても、それはファリサイ派の人々の耳に入りません。
勿論、失われたものが見つけられた理由は、誰かが一生懸命に探しに行ったから、 確かに誰かが首を長くして、心配しながら、失われた息子の帰宅を待っていたからです。 羊飼いが外に羊を捜しに行ったから、またある婦人が自分の家を掃除して綺麗に掃き整理したから、失われた物を見つけられました。 更に、ある父親が戻ってくる息子を抱きしめるために、毎日待っていたので彼が帰った時、急いで迎えられたので息子は無事に帰宅できました。
しかし、ファリサイ派の人たちは罪を赦された人の喜びや病を癒された人の幸せ、あるいは悪霊から解放された人の幸せを分かち合うことを拒んでいるので不幸です。 それどころか偽りの正義を窮屈そうに着込んで、過ちのある人を厳しく咎め軽蔑するファリサイ派の人たちの態度こそ傲慢であり、彼らが回心する人々の喜びに与ることは、到底無理です。 イエスは決して人に向かって「あなたは罪人だ」とは言いません。 むしろイエスは「あなたは神によって癒され、赦され 愛されている者だ」と断言します。
罪の赦しを拒んでいる人たちは不幸です。 何故なら自分たちの罪を告白することを拒否する彼らは、赦される事と愛される事の喜びを知ることを自ら断っています。 これに反して、初代教会のキリスト者を厳しく迫害し、イエスに対して猛烈な妬みを持っていた聖パウロは、イエスによって赦される喜びを体験しました。 テモテの手紙の中でパウロは、自分の内に生き続けている、赦されて受けた喜びを、私たちに伝えようとします。 「キリストがわたしを愛し、わたしのために身を献げられた」(ガラテ2,20)と聖パウロは書きました。 私たちが犯した罪を告白する時に、聖パウロが体験した喜びを味わうことが出来ますように。 私たちが赦される喜びと愛される幸せを深く体験出来るために、イエスは次のように言われました。 「悔い改める一人の罪びとについては…大きな喜びが天にある」と。 ですから、私たちは自分の犯した罪を認めて告白し、神が私たちを赦す喜びと御自分の心に私たちを抱きしめる大きな喜びを神に与えましょう。
私たちに対する神の愛を理解することによって、私たちは罪が何であるかを理解し始めます。 何故なら、罪は私たちを愛している神をひどく苦しめます。 自分の羊が失われたので、羊飼いは苦しんでいます。 大切なお金が失われたので、婦人は非常に悲しんでいます。 愛する子が自分を見捨てたので、放蕩息子の父親は苦しんでいます。 このように神から離れていく、あるいは神の赦しを無視する子たちである私たちのせいで、神はひどく苦しんでおられます。 しかし、ただ一人でも戻って来る時、神の喜びは計り知れないもので、すべてを超えるのです。 その時に神が次のように叫びます。 「死んでいた人が生き返った。 いなくなっていた者が見つかったのだ。 さあ、祝宴を開いて、皆と一緒に楽しみながら、大いに喜びましょう!」と。 アーメン。
年間第25主日 C年 2013年9月22日 グイノ・ジェラール神父
アモス 8,4-7 1テモテ 2,1-3 ルカ 16,1-13
たとえ話の不正な管理人は、帳簿面を誤魔化すことで自分の仕事と自分自身を救いました。 なぜなら、借りのあった人々は、自分たちに対して主人が示した寛大さを褒めながら、次々と主人に感謝しに来るでしょう。 借りのあった人々は、管理人が主人の命令に従って借りを安くしてくれたのだと信じているので、主人は自分の名声を危くせずに済むので、もはや不正な管理人を首にすることが出来ません。 もし、主人が管理人に仕事を辞めさせたなら自分を奇妙な立場に置くでしょう。 そのうえ借りのあった人々は主人が管理人に対して不正を行っている人だと考えるでしょう。 しかし、このように主人の財産を誤魔化した不正な管理人は、自分を守ると同時に主人の評判を高め、彼の名誉を保ち、尊敬される人にしてしまいました。
自分の利益になるように誤魔化す悪賢い人は、あらゆる時代に、世界中に見つけるでしょう。 今日の三つの朗読を通して預言者アモス、聖パウロとルカは無作法な手段や不正な行いや悪意を数え上げます。 それは升を小さくすること、文銅を重くすること、秤を一方に強制的に傾けさせること、貧しい人や弱い人を騙すこと、そして偽りの請求書を作成することなどです。 事実今日のたとえ話はとても不思議と思われますが、イエスはこの話を通して私たちが人々を生かし、彼らに人間らしい生き方を与えるように誘います。 言い換えれば、このたとえ話を通してイエスは懸命に、巧みに私たちが困っている人々の友となるように呼びかけています。
さらに、イエスが私たちを根本的な選択の前に置くのです。 それは、私たちが神に仕えるか、それとも色々な物事の奴隷になるか、のどちらかです。 神に仕えることは、神を真似ることです。 神に似ることは、他の人たちと関係を結ぶために、すべての賢い手段を探し求めることです。 私たちを友の親密さに迎え入れようとする為に世を作った神は、イスラエルの民とご自分の教会である私たちとに、沢山の契約を結びました。 「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」(出33,11)と出エジプト記が述べています。 また神は私たちとの食事を分かち合いたいのです。 「わたしは戸口に立って、たたいている。 だれかがわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(黙示録3,20)と主は言われます。 このように神に仕えることは友を作ることであり、孤独を避ける為に人を歓迎すること、そして自分が歓迎されることです。 地上にも、天の国にも「永遠の住まいに迎え入れてもらえる」友を私たちは見付けなければなりません。
ですから自問しましょう。 私たちが所有している物事は他の人と友の関係を結ぶように役に立っているでしょうか? お金や富は揺るぎない支えであるかのような錯覚を起しますが、しかしそれらのものは偽りと不正なものだとイエスは断言します。 人は自分の富みを支えとすることで、もっと大切なものを無視する危険を犯しています。 もしお金が人の日常生活の目的であれば、その人はもっともっとそれを欲しがるようになり、またそれを失う心配を抱き、更に益々物質なものを所有する欲望を養うようになります。 その結果、他の人と無償な友の関係を結ぶことは難しくなります。 そういう理由で、お金が人生の目的ではなく、生きる為のただ何かを交換する手段や、また人間関係を結ぶ為の手段だけだとイエスは教えています。 富とお金の奴隷にならないように、人はそれを注意深く支配しなければなりません。
「不正な富が私たちを騙さないように」とイエスは忠告しようとします。 私たちの富は、人間関係と友の絆を結ぶために役立つものでありますように。 「水をためることのできないこわれた水溜めを掘る」(エレミヤ2,13)ような事をして、時間を無駄にしないようにしようと預言者エレミヤが勧めています。 福音が語る「本当の価値のあるもの」とは私たちが神と周りの人々と結んでいる繋がりです。 この絆だけが私たちの人生に意味と値打ちを与えるからです。 「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」(ルカ12,34)とイエスは言われます。
ですから、誤魔化さないように、自分たちの出会いの内に嘘、疑い、不信感を入れないために、神が真実であるように私たちも真実でありましょう。 そうすれば、私たちは人間関係で豊かに満たされた人となって、神の次の幸せな言葉を心に納めるでしょう。 「忠実な良い僕だ。 お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。 主人と一緒に喜んでくれ」(マタイ25,21)と。 アーメン。
年間第26主日 C年 2013年9月29日 グイノ・ジェラール神父
アモス6,1-7 1テモテ6,11-16 ルカ16,19-31
あらゆる時代、贅沢にぬくぬくとしたベッドに寝る人がいれば、地面に置かれたダンボールに寝る人もいると、預言者アモスとイエスは 私たちに思い起こさせます。 世界中に、不幸と出会った人に同情して色々と分かち合う人もいれば、他人の苦しみに対して無関心で利己主義の生き方を送る人もいます。 すべての人が永遠の命に辿り着くように、父なる神は絶えず貧しい人にも、富んでいる人にも、ご自分の豊かな愛を注ぐと聖パウロは思い起こさせます。
お金や富みが好きな心は、いつか自分が好むもののようになります。 つまりその心は鉄のように冷たくなり、命のない無感覚なものとなってしまいます。 利己主義と無関心は人の心を奪い、その代わりに固い石を与えます。 「心配せずに、安逸をむさぼる人たちは不幸だ」と預言者アモスは叫び忠告します。
たとえ話の金持ちは全く悪いことをしていない、ただ、彼は自分の周りにいる人に興味を全く示さないだけです。 彼はラザロと人間関係を持たないので、この金持ちには名前がありません。 ラザロは心から人間関係を望みます。 いくら自分の貧しさと病気のせいで、その関係が屈辱的な関係であっても、ラザロは人間関係を慕っているので名前があります。 死んだ途端、ラザロの希望が満たされています。 天使たちに囲まれてラザロはアブラハムのすぐ傍に運ばれています。 しかし、金持ちは葬られてから、無関心によって自分が作った淵に孤独に置かれています。 と言うのは、他人の必要性に対する心の広さはこの世でも後の世でも、命の泉となります。 反対に利己主義は死へ導くのです。
楽しく安楽な生活を送った時に、たとえ話の金持ちは自分とラザロと分けていた身近な隔たりを乗り越える努力をしませんでした。 そのために金持ちの死後、この隔たりは超えることのできない淵となりました。 しかしこの淵の底から、金持ちは支配者のように行動しようとします。 というのは、金持ちはラザロを自分の個人的な奴隷のように見て、彼の助けを受けるためにアブラハムに何度も命令します。 しかし残念なことに、今やラザロはアブラハムのすぐ傍でアブラハムと全く平等な等しい立場に置かれています。 金持ちはラザロと人間関係を結ばなかったので、二人は永遠に離れ離れになりました。
これについてイエスは次のように忠告しました。 「その時、人々は食べたり飲んだり、めとったりしていた」(マタイ24,38)と。 勿論、それは罪ではありません。 何故なら、食べることも、飲むこともせずにいれば人は死にますし、結婚を禁止するなら人類が消えるでしょう。 そこでイエスは次のように加えます。 「人々は何も気にかけなかった」と。 呑気に暮らすこと、即ち神と人々を無視することこそが根本的な罪です。 霊的な繋がりなしには、あるいは人間的な関係なしには、人の存在はあっと言う間に不毛となり、だらしない生活、調和を失った生き方となってしまいます。
今日の典礼の教えは非常に簡単です。 分かち合う憐れみの心を持たない人、苦難にある人々との連帯を持たない人は、この世でもまた永遠の命のうちにも幸せを決して味わうことが出来ません。 利己主義は実を結ばずに孤独に導きます。 そのために、私たちが全ての人に真実な繋がりを持ち続けるように、また、呑気で安楽な生き方の内に沈めてしまわないように、神の言葉やモーセと預言者の教えが私たちに与えられています。 貧しい人であろうと、富んでいる人であろうと、他の人に示した関心と思いやりだけが永遠の幸せと永久の命に導くのです。 「人生はただ一度しかない」と言われています。 この人生が私たちに与えられているのは、命と豊かな人間関係の泉となるためです。 ですから、神の言葉に耳を傾け、心を開いて、すべての出来事とすべての人々に対して注意深いキリスト者になりましょう。 アーメン。」
年間第27主日 C年 2013年10月6日 グイノ・ジェラール神父
ハバクク1,2-3; 2,2-4 2テモテ 1,6-8,13-14 ルカ17,5-10
神に対して抗議した預言者ハバククの叫びは、現在にもぴったりのものです。 世界中に暴力、貧困、略奪、争いが溢れています。 どうしてこのような惨状の山を前にしても、神は少しも動じないのでしょうか? これについて神に尋ねたら、預言者ハバククに次のように答えられました。 「我慢しなさい」、「神に従う人は信仰によって生きる」と。 一体、このような答えは現在の人々を満足させるでしょうか?
確かに、神が私たちに要求するものは信頼です。 適当な時、神は必ずよい麦と毒麦を分けて、それぞれの人に相応しい報いを与えてくださいます。 信じることは私たちを欺くことも、欺かれることも出来ない神への信頼の門を大きく開くのです(カトリック教会のカテキズム156)。 信仰は生き生きとしているものです。 その理由で信じる人たちは、暴力や戦争を止めさせようと戦い、また貧困、飢饉、疫病をなくそうと、絶えず具体的な手段を探し求めます。 これこそ神を信じる人々の業です。
世を救う神の約束は私たちの手の中にあります。 信仰者たちが、その約束を実現する可能性を受けたからです。 若い友であったテモテに使徒パウロは次のように書きました。 「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」(2テモテ1,7)と。 言い換えれば、神の約束における信仰がこの約束を実現するのです。
「信仰の一つの種が山を動かすことが出来る」と宣言するイエスは、この真理を確認します。 桑の木を抜き出すことはとても無理です。 桑の木は土の中でまっすぐに二十メートルの深さまで根を伸ばすので、その木を動かすためには、切り落とす以外に方法がありません。 桑の木を抜き出せないのに、どうしてその木を海の中に植える必要性があるのでしょうか? イエスの時代の人々にとっては、海は悪魔たちの住む場所であり、また死の国でもあります。 従って、海に木を植えることは 死から命を引きだすことを意味しています。 そこで、桑の木に向かって「海に根を下ろせ」と命令するように願っているイエスは、ただ私たちが信仰を持って、あらゆる悪の力に対して戦うことだけを要求しています。 私たちが持っている信仰を現すなら、神は約束されたことを実現し、全人類を不幸の方へ引き寄せようとする方向性を終わらせるのです。
自分自身も、また自分たちの行いにも信頼を置かないようにと、イエスは私たちに願っています。 むしろ、私たちを通して、私たちによってご自分の約束を実現する神にのみ、私たちは信頼を置かなければなりません。 信仰があらゆる悪の力に打ち勝ち、最悪である死さえも簡単に打ち破ることができると、イエスは教えています。 信仰者である私たちは、奇跡を行うことが出来るのです。 しかし、私たちは「取るに足りない僕でしかない」ことを決して忘れてはいけません。 その助けとして、ロヨラの聖イグナチオは次のように勧めています。 「神が何もしないと考えた上で行いなさい。 そして、自分の行いの結果は神からの賜物として受け入れなさい」と。
洗礼の時に私たちが受けた信仰は、決して小さくて弱いものではありません。 この信仰は教会の信仰であり、完全であり何も欠けていません。 まして、すべての天使と聖人の祈りによって支えられているこの信仰は、絶えず成長し、ますます強くなります。 特にこの信仰が、神のみ旨に委ねられている時、神の心を動かすためにとても力強いものです。 私たちの祈りが信仰の力で覆われているなら、私たちが無理と思うことも簡単に実現出来るとイエスは教えています。 それには、信仰がいつも神の言葉で養われることが必要です。 神が私たちに願う勤めは「御言葉に生きること」これだけです。 そう言う訳で「私たちは取るに足りない僕です」が、神は偉大な業を実現する為にどうしても私たちを必要とします。 聖霊の力の内にイエスと一致しながら、謙遜に、忠実に頼まれた神の業を実践しましょう。 アーメン。
年間第28主日 C年 2013年10月13日 グイノ・ジェラール神父
2列王5,14-17 2テモテ2,8-13 ルカ17,11-19
解放するために避けられない開かれた心について、神の言葉が私たちに語っています。 シリアのナアマンと福音の10人のライ病者は、絶対的に体の回復を求めているのです。 しかし、彼らは預言者エリシャとイエスから頂く答えは、あまりにも彼らを元気づけるものではありません。 ナアマンはヨルダン川の水に7度身を浸す必要があり、他の10人は体の回復を認めさせるために、エルザレムの神殿へ行かなければなりません。
癒しと奇跡は魔法の行いではありません。 元気になりたい人は先ず、自分が病気であり、無力であり、どうしても誰かの助けが必要だと認めなければなりません。 そして、次に回復と救いをもたらす信仰を示さなければなりません。 聖書によると癒しは、預言者あるいはイエスの言葉に対する従順と繋がっているのです。 人が言われたことをし始めるときに、また神の言葉に従い始める時に、癒しが与えられています。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ11,1)。 言われた言葉を信じて、癒しの確認をまだ受けていないにも拘わらず、シリア人のナアマンと10人のライ病者は、直ぐ出発してその従順のお蔭で皆が癒されました。サマリア人はイエスのところに戻って来ました。 病気のせいで不潔な者とされた彼は、イエスのそばに近寄ることが出来ず、遠くからイエスの助けを祈願しました。 イエスによって癒されたので、サマリア人はイエスのそばに近寄ることが出来ます。 サマリア人は癒されたことよりも、キリストと出会うことの方が最も大切だと理解したので、イエスの足元にひれ伏して、イエスに対する感謝の心で、声高らかに神を賛美します。
癒されたナアマンは、預言者エリシャの神に感謝するために、イスラエルの土を採集して自分の国で祭壇を作るために持って帰りました。 サマリア人は自分の国へイスラエルの土を採集して持って帰る必要はありませんでした。 彼にとって神と出会う場所はイエス自身です。 確かにキリストと出会った途端、このサマリア人は救いと復活の言葉を受け止めました。 「立ち上がって、行きなさい。 あなたの信仰があなたを救った」と。
ナアマンとサマリア人の開かれた心を持っていたなら、キリストによって癒された全ての人が、聖パウロの言葉を借りて次のように言えるでしょう。 「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。 耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる」(2テモテ2,11-12)と。
9人のライ病者とサマリア人の態度の違いは、パウロとイエスが良く語る律法の実践と信仰が与える解放の違いのシンボルです。 人は律法を守るからではなく、信仰を示すから救われているのです。 癒された9人のライ病者はモーゼの律法に従いましたが、神に感謝することは出来ませんでした。 むしろサマリア人が命と健康の泉であるイエスのそばに戻って来て、自由に神の栄光を宣言しました。
きっと私たちは神に感謝し、神に栄光を与えることをもう一度学ぶ必要があると思います。 「神の言葉は、繋ぐことが絶対できません」と言った聖パウロが「感謝と賛美も繋ぐことが出来ない」ことも言うことが出来るでしょう。 ミサに与る度にイエスが罪のライ病から私たちを癒しています。 それについて自由に喜びを持って感謝するために、私たちは充分明白であるでしょうか。 幸福の中にあっても、不幸の中にあってもミサ毎にイエスは癒し、解放し、復活させる命の言葉を私たちに語るのです。 この言葉が、自分たちの内に感謝と命の泉となるためには、私たちの信仰の強さが要求されています。 聖霊によって私たちが絶えず神に感謝することが出来ますように。同時に私たちの人生の中に喜び、慰め、助け、友情、祈りの力を注ぐ人々にも「ありがとう」と言いましょう。 アーメン。
年間第29主日 C年 2013年10月20日 グイノ・ジェラール神父
出エジプト17,8-13 2テモテ3,14-4,2 ルカ18,1-8
今日の福音を理解する為に、たとえ話の背景を思い起こすことが必要です。 「神の国はいつ現れるのか」とファリザイ派の人々はイエスに尋ねました。 ファリザイ派の人々は、当時の人々と同じように、神の救いを待ち望み、待ちくたびれています。 実に皆が、ローマ人の占領、数えきれない不正な行いと暴力でひどく彼らは苦しんでいます。 それをご覧になっている神は「どうして、速やかに、ご自分の支配を強制しないのか」と、ファリザイ派の人々は知りたかったのです。 これについてイエスは次のように答えました。 「実に、見えなくても、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と。 そう言ってイエスはファリザイ派の人々を離れました。すぐその後イエスは、「人の子の日が来るのは」今の為ではなく、ずっとあとに来ると自分の弟子たちに向かって告げました(参考ルカ17, 20-37)。 イエスのこの矛盾する言葉は、一体何を意味するのでしょうか? 神の国と支配は既にここにあるのでしょうか、それとも後に延ばしているでしょうか?
イエスは直接にこの質問に答えようとしませんでした。 むしろイエスは悪い裁判官と煩いやもめのたとえ話を語りました。 イエスの結論は次のようです。 「もし悪い裁判官が煩いやもめがひっきりなしに叫ぶ訴えに答えたなら、まして神も、昼も夜も叫び続けているご自分の選ばれた人々の正しさを認めるに違いありません」と。 では、いつでしょうか?「速やかに、待たずに、あっというまに」とイエスは正確に答えました。 しかしそれは正しいけれども、欠けている部分があります。 何故なら、「気を落とさずに、絶えず祈る必要性がある」とイエスは忠告するからです。 そう言う訳で、神の助けは直ぐには来ないと私たちは理解しなければなりません。 イエスの口から湧き出るこのような矛盾する言葉は、私たちを惑わせるに違いありません。 しかしながら、神の働きかけは目で見ることが出来ない、「神の国は見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものではない」(ルカ17,20-21)とイエスははっきりと知らせました。
イエスがこの言葉を語った時から、今も何も変わらないことを初代教会の信者たちのように私たちも確認しています。 至る所で暴力が拡大し、不正な行いも増すばかりです。 二千年に渡って世界のキリスト者が「神よ、悪から私たちを救って下さい」と叫び続けますが 神は聞こえないようです。 たとえ話のやもめのように、私たちは絶対に開けることのできないドアを叩いています。 神の沈黙は確かに私たちを面食らわせます。 ですから昼も夜も神に向かって祈りを叫ぶことは役に立つでしょうか? これに対して、ちょうど昔、山の上でモーセがしたように イエスは「気を落とさずに絶えず祈る」ことを勧めています。 とにかく神に私たちは最も必要なものを願わなければなりません。 つまり「神の国が来ますように」。 しかし、私たちが願っているものは既に与えられています。 確かに神の国は私たちの間にあるのです。 信仰をもって、見えない姿で与えられた神の国を受け入れることは最も大切なことです。 「見ないのに信じる人は、幸せである」(ヨハネ20,29)とイエスは宣言します。
祈ることは、いつも神を礼拝することです。 祈りは、神の偉大さを仰ぎ見る謙遜な感謝の態度です。 礼拝の祈りはいつも即座に結果をもたらします。 祈りは神を変化させるのではなく、祈る人を変化させることを目的すると言う事実を忘れるなら、私たちが絶えず祈る必要性があることを絶対理解できないでしょう。 絶えず祈りながら私たちは神に近寄り、そして段々神の栄光と聖性の力が私たちを光り輝く者へと変化させます。 その結果、私たちにとっては全人類に対する神の愛の計画に与かることが簡単になります。 世界を襲ってくる災いと不幸にも拘らず、全ての人の救いの為に神が実現し続ける良い、そして美しく偉大で必要な技を絶え間ない祈りは、はっきりと見せるのです。
そう言う訳で、イエスはもう一度信頼を示すように私たちを招きます。 愛である神を信じるなら、また神の国が私たちの間にあると信じるなら、私たちはキリストの再臨を早めることが出来ます。 更に、絶え間ない祈りによって、この世のために神が実現する愛の計画を支えるなら、確実に私たちがキリストの再臨を早めるのです。 「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか?」とイエスは疑問を抱いています。 信頼をもって「マラナタ、主よ、来てください」(黙示録22,20)と絶えず祈るなら、必ずキリストは私たちの信仰のしるしを見付けるに違いありません。 アーメン。
年間第30主日 C年 2013年10月27日 グイノ・ジェラール神父
シラ書30,12-14 16-18 2テモテ4,6-8 16-18 ルカ18,9-14
先週の日曜日には、小さなたとえ話を通してイエスは根気よく祈り続けることを教えていました。 今日イエスは、祈る時の正しい態度を教えています。 人がいくら良い業を行っても非の打ち所の無い立派な生き方をしても、その人は神を自分の味方にすることは出来ません。 それを思い込んでいる人は、サタンのように大変間違っています。 というのは、サタンは私たちに対する神の無償の愛を全く理解できませんから。 ヨブ記によると、ある時サタンは神が無償でヨブを愛し豊かに祝福することを厳しく非難しました。 理由は、ヨブが神のために何も特別なことをしなかったからです。 神は憐れみ深い神であり、宇宙万物を創る前に無償で、理由なしに、私たちを愛して下さったのです。 聖パウロはこれについて証しします。 「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自分の計画と恵みによるのです。 この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられました」(2テモテ1,9)と。
たとえ話のファリサイ派の人は非の打ちどころのない人であり、律法を完全に守っているかのようです。 彼は自分が行ったよい業を自慢して、神が彼を褒め称えて、報いると思い込んでいます。 しかし、残念なことですがこのファリサイ派の人は、他人を非難しているので律法の最も大切な掟である愛、憐れみ、慈しみを全く無視しているのです。 それよりもっと重大なことは、彼の祈りを見ると、彼はあらゆる面で神を全く必要としていないことが分かります。 このファリサイ派の人は、自分が行った良い行いは、自分が努力した結果ですから自分は正しい人だと思い込んでいます。 それに反して、徴税人の人は誰をも自分自身をも非難しません。 彼は神の助けがなければ、何も出来ないことを認めています。 徴税人が望んでいる救いは、自分の努力の結果ではなく、ただ神の憐れみによるだけで、それが与えられていることを知っています。 確かに貧しい人や徳のない人や称賛に値しない人を神は好みます。
手紙の中で聖パウロは、まるでたとえ話のファリサイ派の人のように法螺を吹いています。 聖パウロは次のように書きました。 「わたしはファリサイ人であって、ファリサイ人の子です」(使徒23,6)。 「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。 今や、義の栄冠を受けるばかりです。 正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです」(2テモテ4,7-8)と。 このような聖パウロの自慢の中に高慢のしるしを見つけても、それはあっという間に清められています。 何故なら、聖パウロは次のように書き続けます。 「だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。 どうか主よ、彼らにこの責めが負わされませんように」(2テモテ4,16)と。 このように聖パウロは他の人に対する尊敬と慈しみを表すのです。 他の手紙の中でパウロは次のように書きました。 「自分には何もやましいところはないが、それで私が義とされているわけではありません。 わたしを義とするのは主なのです」(1コリント4,4)と。 そう断言した聖パウロは、自分が謙遜であることをよく表しました。最後に徴税人のように聖パウロは全てを神に返します。 「主はわたしを通して福音があまねく宣べ伝えられるために、わたしのそばにいて、力づけてくださいました」(2テモテ4,17)と。
今日の詩編も徴税人の態度を表しています。 「神は失意の人の支え、より頼む人を滅びから救われる。 主はわたしたちの口のほこり 苦しむときの心の喜び。」 このような謙遜な態度によって神の心は動かされます。 ですから神の前で祈るときに 謙遜に私たちが取るに足らないものであり、行った良い行いは神の恵みによってである事実を認めましょう。 ですから、自分の為にも、また他の人のためにも神の恵みと助けを願いましょう。
自分は正しい人間だとうぬぼれて 他人を見下している人に対して、イエスは今日のたとえを話されました。 全人類の状況の中に、この軽蔑を見つけるのは、とても簡単です。 貧しい人の叫び、傷ついたり、軽蔑されたりした人の叫びが、 私たちを動かそうとしています。 シラの話によると「謙虚な人の祈りは雲を突き抜けてゆきます」。 私たちがお互いに面倒をみることを神は望んでいます。 キリストに従って、キリスト者の共同体が隣人を助け合うことは当然です。 聖パウロの言葉を借りて、私たち一人ひとりが次のように言えるように努力しましょう。 「神の恵みによって、わたしは苦しんでいる兄弟の叫びに耳を傾けました。 私の助けを願った人の為に、私は戦いを戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。 自分には何もやましいところがないが、それで私が義とされているわけではありません。 私を義とするのは主なのです」と。
他人に対する思いやりは、全ての祈りを叶えます。 シラの話によると、真心から神に仕える人が神を喜ばせ、その人の祈りは天にまで届きます。 ですから謙遜に私たちに対する憐れみを示し、善を行えるように恵みを下さる神に絶えず感謝しましょう。 アーメン。
年間第31主日 C年 2013年11月3日 グイノ・ジェラール神父
知恵の書11,23-12,2 2テサロノケ21,11-2,2 ルカ19,1-10
大勢の群衆に囲まれているイエスは、ザアカイしか見ていません。 イエスがエリコの街に来たのは、ただザアカイと出会うためだけでした。 「悔い改める一人の罪びとについては、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(ルカ15,7)ので、イエスは失われた者であるザアカイを探して救うために来ました。 いちじく桑の木に登ったザアカイを救うためにイエスは急いで出かけました。 「さあ、急いで降りてきなさい。 今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」とイエスはザアカイに命令します。
それを聞いて、周りにいる人々は眉をひそめています。 しかしこの人々は幼い時から神の言葉で養われ、詩編145の言葉をよく歌っていました。 「主は恵みに富み、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに満ちておられます。 主はすべてのものに恵みを与え、造られたすべてのものを憐れんでくださいます。」(詩編145,8)と。 また、エリコの街の人々は預言者エゼキエルの言葉も耳にしていました。 それは「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。 むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」(エゼキエル33,11)と。 更に「神よ、あなたはすべての人を憐れみ、回心させようとして、人々の罪を見過ごされる」(知恵11,23)という言葉もエリコの人々は知恵の書の中で読んでいます。 ですから、ザアカイが自分の家にイエスを歓迎することによって回心する権利を拒む周りの人々こそ、真の躓きです。 エリコの人々にとっては、ザアカイは徴税人なので神の赦しに全く相応しくない罪びとです。
ザアカイはとても幸せです。 初めて誰かが、自分を裁かずに見つめていますから。 あざけりの言葉やあだ名を言わずに、初めて誰かが、自分の名を呼びましたから、ザアカイの考えと生き方が一瞬のうちにひっくり返されました。 これこそ真の回心のしるしです。 ザアカイの家を訪れることによってイエスは 彼に社会的位置を与えて返しました。 ザアカイはもう一度「アブラハムの子孫」となります。 イエスはザアカイに新しい仕事を探し見つけるようにとは願いません。 実際、イエスは何も彼に願いませんでした。 むしろ、ザアカイは自分の方から自発的に自分の仕事をし続けながら、どのようにして自分の生き方を変えるつもりかについて説明します。 それは、貧しい人を助けることや自分がだました人々に代金を払い戻すことや他の人々を大切にすることです。
良い牧者としてイエスは自分の羊をよく知っています(ヨハネ10,14)。 各羊をその名によって呼び導きます。 確かに私たち一人ひとりの上にイエスは憐れみと慈しみの眼差しを注いでいます。 私たちが信じる人となるため、真の弟子となるためにご自分の体の一部分となるように、イエスはご自分の言葉を私たちに与えて下さいます。 それでは、私たちはどのようにイエスの呼びかけに応えているでしょうか? 一体私たちは自分の生き方を変えるために、自己満足の木から降りる為の勇気を持っているでしょうか? 私たちの幸福を望み、私たちを喜びで満たしたい神に充分信頼を示しているでしょうか?
「わたしはこんな人だから変えることが出来ない」と心で思うことは、キリスト者に相応しくありません。 もっと最悪なことは、他人に対して彼らも変わることが出来ないと思い込むようになります。 このような考え方は、真の躓きであると同時に神の憐れみを否定する高慢な態度です。 そういう訳で私たちは絶えず回心すること、特に神と他人に対する私たちの眼差しを変えることが必要です。
イエスと言うヘブライ語の名は「神は救う」と言う意味です。 イエスは失われた者を探して救うために来られた方です。 イエスにとってザアカイの所に行くことが必要だったように、イエスがご自分の住む場所をつくるために、私たちの心に来ることは肝心です。 回心すると言うことは、先ず、私たちのお客様になりたいイエスによって私たちを見つけられると言う意味です。 自分の内面的な住まいでイエスの救いを歓迎する度合に応じて、イエスは「その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださいます」(2テサロニケ1,11)。
ですから、ザアカイを真似てイエスを見るように努力しましょう。 しかしそれだけでは充分ではありません。 大切なことはイエスの眼差しと出会うことです。 イエスの眼差しは心を開き、自由を与えます。 私たちを変化させるため、また私たちが他の人々を大切にする為に、イエスはいつも憐れみと慈しみを持って私たちをご覧になります。 同じような眼差しで、私たちはすべての人を見なければなりません。 アーメン。
年間第32主日 C年 2013年11月10日 グイノ・ジェラール神父
2マカバイ7,1-2,9-14 2テサロニケ2,16-3,5 ルカ20,27-38
諸聖人の祝日と死者の祝日が終わりましたが、今日の朗読は信仰の中心である神の命と復活についてもう一度考えるように私たちを招きます。 イエスの名によって集まっている私たちの間にキリストがおられ、ミサ祭儀に与かる度にイエスは神ご自身の命と私たちを一致させます。 同時にイエスは、既に神の聖性と憐れみを永遠に味わっている聖人と天使たちの交わりに私たちを導き入れます。
ところで、どのようにして、私たちが死後の命を想像出来るでしょうか? どうして、とても愛していた親しい人が死んでからは、もはや私たちと語ることが出来ないのでしょうか? どうして、この世ではある人と何もかも分かちあったのに、死後にはその人ともはや何も分かち合うことは出来ないのでしょうか? せっかく、その人は永遠の命を持ち、神の命の充満さに完全に与かっているのに!
残念なことに私たちの質問に答える人は誰もいません。 サドカイの人々にイエスが与えた答えも短か過ぎるので私たちを満足させません。 神の命が与える絆は、地上で私たちが結んだ繋がりより強いのだとイエスは説明しただけです。 なぜなら、その絆は命の泉である神の内に源泉しているからです。 この神秘を説明することは神の神秘を説明することと等しいので、とても無理です。 そういう訳で、全ての死者は無言です。 愛の完成に導かれ、神の内に変容され、聖とされた人々だけがこの神秘を理解し、その神秘を生きているのです。 しかも彼らはそれを全く説明できません。
終わりのない幸せの命に与かる為に、最も良い準備は、神を知り、前より神を愛するように努力することです。 また、神を仰ぎ見る天使と聖人たちの友となることも望ましいです。 聖人たちの生涯の物語を読みながら、彼らの助けを願い、あるいは天使と聖人たちと共に声を合わせて、神への賛美を歌いながら、私たちは神の現存の内に生きる可能性を与える親密さを、彼らと私たちの間に作り出します。 同じように、私たちに先だった親しい祖先への感謝を示す最も良い方法とは、彼らが私たちの願いと困難を神に伝えてくれるように祈ることです。 というのは、祖先たちが私たちに対して自分の愛を尽くすことによって、神は彼らの願いを叶えながらご自分の傍に彼らを引き寄せるのです。
復活について話したイエスは、私たちに未来に対する大きな希望を与えてくれます。 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」(ルカ20,38)と。 私たちの人生は絶対にこの世の地上の状態だけに限られていません。 全ては死と共に終わりません。 キリストと一致している信仰生活によって、私たちは永遠に生きることを学んでいるので、連続性があります。 同時に、今生きている私たちの有り方と明日永遠になるべき私たちの存在の間には、考えられない想像もできない不連続性があります。
自分の信仰を守る為に死ぬことによって、イスラエルの殉教者たちは神の命に達するために、特に復活するために、死はただ必要な通過点だと彼らは知っていました。 しかし、キリストの死と復活のおかげで、私たちは死ぬ時を待たずに、神の子として、光の子として生きる可能性と自由を持っています。 そういう訳で、死後どうなるかについて考えることは大切なことではありません。 むしろイエスの勧めに従って「次の世に入る為に相応しい者」となるように努めましょう。 また、「主が、わたしたちに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように」(2テサロニケ3,5)聖パウロと共に願いましょう。 主イエスが教えたように私たちは「すべての人は、神によって生きている」(ルカ20,38)また「唯一の主、イエス・キリストによって万物は存在し、わたしたちもこの主によって存在している」(1コリント8,6)ことをも知っています。 また「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ 」(ローマ14,8))こともよく知っています。 ですから永遠の命の泉である神に揺るぎない信頼を現しましょう。 神は私たちの父であり、今も、いつまでも、ご自分のすぐ傍に私たちが、生きている者として存在することを永遠の昔から望んでおられます。 アーメン。
年間第33主日 C年 2013年11月17日 グイノ・ジェラール神父
マラキア3,19-20 2テサロニケ3,7-12 ルカ21,5-19
毎年新しい典礼歴が始まる前に、教会は世の終わりについて考えるように提案しています。 福音の預言する大惨事の話しを聞いても私たちは無関心です。 なぜなら一年中私たちは自然の災いを耐え忍んでいるからです。 台風、火山の噴火、地震、つなみ、土砂崩れ、洪水、猛暑、大きな被害をもたらす竜巻は、私たちの日常生活の中でよく起こる災害です。 その上、もっと恐ろしいもの、即ち国民と地域を完全に破壊するスーパー地震とつなみに備えて、準備をするように報道機関は度々忠告しています。
というような訳で、預言されている福音の災いは私たちを驚かせません。 日本はそれより広島と長崎の原子爆弾のせいでもっと酷い体験をしたからです。 勿論、至る所で大自然の災いと共に、人間が作った非人間的な状況が起こるでしょう。 目に見える暴力的で人目をひく出来事よりも、人間の心をむしばむ内面的な暴力が恐ろしいのです。 イエスは特にこの暴力について語り、この暴力は私たちに恐れを与えます。
内面的な暴力とは、人が自分の政治的、道徳的、宗教的な確信を否定する暴力です。 あるいは、人が自分の良心に反して行い、また法律を破るためにその人に与える内面的な暴力です。 ここに本当の暴力があり、本当の勇気もあります。 つまり、信仰の内に揺るぎないものに留まる勇気、自分の良心に反して行わない勇気、嘘をつかない勇気、即ち命がけで真理を宣言する勇気です。
直ぐに世の終わりが来ると信じないように、イエスは私たちに忠告します。 特に恐れないようにイエスは願っています。 恐怖はサタンから来るものだと聖書は教えています。 神は繰り返して私たちに「恐れないで。 わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」(エレミヤ1,8)、 「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。 不安の眼差しを持つな、わたしはあなたの神。 勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える」(イザヤ41,10)と。
恐れを抱くよりも忍耐するようにイエスは願っています。 「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」と。 確かに不安を抱かずに祈ること、平和の内に待ち望むことをイエスは願っています。 私たちが出会う全ての困難の中でイエスが一緒にそばにいることは事実です。 残念なことですが、私たちはそれを忘れるので、サタンが私たちに近寄り、そして恐怖が私たちを襲ってきます。
数えきれない殉教者とキリスト者に対して、最も暴力的な迫害の世紀は20世紀です。 世界中の全体主義国家、共産党、イスラム教、インドの宗教などは無駄にキリストの教会を執拗に今も攻撃し続けています。 イエスの勧めによると、迫害されたキリスト者は決して落ち込んでいないだけでなく、頭をあげています。 なぜなら、イエスが直ぐ傍にいることを私たちは知っていますからです。 思いがけない出来事を前にして、世界の人々がパニックの状態に陥ってもキリスト者たちは、神の内におく信頼によって、安全な道案内人として、暗闇を照らす光とならなければなりません。 詩編が述べているように「死の陰の谷を歩むときでさえ、彼らは災いを恐れない。 神が共におられるから」(詩編23,4)。
キリスト者の心を満たしている喜び、平和と信頼が「時の真のしるし」です。 もし、万一宣言する信仰のために、私たちが迫害される時、イエスが私に願うことは、喜びを示しながら頭をあげて死に打ち勝ったキリストの内に希望を置くことです。 希望で満たされた信仰生活によって、世界の人々にこのような証しを与えるなら、疑いもなくキリストが言われたように「わたしたちの髪の毛の一本も決してなくならないでしょう」(ルカ21,18)。 アーメン。
王であるキリスト C年 2013年11月24日 グイノ・ジェラール神父
2サムエル5,1-3 コロサイ1,12-20 ルカ23,35-43
今日私たちは、宇宙万物の王であるキリストを仰ぎ見ています。 信仰は、全てはキリストの内に完成されることが神の望みであることを教えています。 宇宙万物の創造の初めから決められた救いの神秘は、イエスの中に実現されます。 そうであれば、どうして栄光のキリストを見せるよりも、十字架につけられ辱められているキリストを今日の典礼は、私たちに見せているのでしょうか?
生涯に渡ってキリストは「救う」「救い」という言葉を使いました。 「わたしは失われた者を探して、救うために来たのである」とイエスは言いました。 イエスの全てのたとえ話は、罪びとの帰宅と見つけられた羊について喜ぶ神の慈しみと憐れみを述べているのです。 しかし十字架の足元に立っていた人々は、イエスが言おうとすることを理解せずに、その言葉を利用してイエスをあざけっています。 「他人を救ったのだ。 自分を救うがよい」と彼らはあざ笑います。 一人の強盗でさえ軽蔑しながら次のように叫びます。 「お前はメシアではないか。 自分自身と我々を救ってみろ」と。
至る所でイエスは神の国を語りました。 この王国は小さな種のように、既に私たちの間にあるとイエスは説明しました。 目に見えない神の国は日毎に成長し、それを受け止める人に救いが与えられています。 そこでイエスに敵対する人々は、彼の言葉を変化させ皮肉に扱います。 「この男は王になりたかった」と。 そしてピラトは「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれた罪状書きを書き、十字架の上に掛けました。
イエスの傍らに二人の犯罪人が十字架につけられています。 外典であるニコデモの福音は、彼らをデスマスとゲスマスと名を付けました。 キリストと同じ苦しみを耐え忍ぶデスマスは、福音の中でキリストを「イエス」と呼ぶ、ただ一人の人です。 デスマスは、自分の王として、そして自分の永遠の救いの泉としてイエスを認めます。 「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」とデスマスは宣言します。 ここで信仰の神秘があり、小さい人がそれをすぐ理解します。 しかし、大祭司と律法学者たちは理解できずに軽蔑します。 カルワリオの所でデスマスだけが「神の国」と「救い」という言葉の真実を理解出来ました。 そういう訳で、イエスは直ぐにデスマスに答えます。 「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」と。
神の国はこの世のものではありません。 この地球は絶対に神の国となりませんが、この地球に生きている私たちはその国を形作っているのです。 しかし、この国は「神の現存の中に」、即ち神の永遠の流れの中に、既に完全に実現されています。 デスマスはそれをよく理解したので、イエスは彼に「今日、あなたはわたしと一緒にいる」と断言しました。
主の祈りを唱える時、私たちは神の国が来るように願っています。 この願いをする度に、自分たちが聖なる者となる希望が私たちの心の中に湧き出るように、聖霊はすぐ働きかけます。 聖性の恵みは、神のみ旨を行う決意と結ばれています。 ですから、神の国が来るのを願うことは、イエスの約束が自分の内に実現されることを望むことです。 それは「父とわたしとはその人のところに行き一緒に住む」(ヨハネ14,23)という約束です。
イエスはご自分の言葉、教会の秘跡、特に聖体の秘跡、そして私たちの内にいつも現存しておられます。 イエスと出会う為に、私たちは毎週日曜日ここに集まっています。 確かに、私たちはイエスの言葉を聞き、イエスの体をいただき、一緒に祈り、歌っています。 そして神が、私たち一人ひとりの中に留まるので、私たちは互いに愛し合うように努力します。 私たちはキリストの神秘的な体であると同時に、聖ペトロが説明したように「神の国の生きた石」(参照1ペトロ2,5)でもあります。 王であるキリストを祝いながらご自分の死と復活の神秘の中に、イエス・キリストが基礎を築いた神の国の働き手であることを私たちは証ししています。
ですから昔、デスマスがしたように私たちも信仰を持って、イエスを仰ぎ見ながら次のように願いましょう。 「イエスよ、私たちを思い出してください。 そしてあなたの御国で 私たちを受け入れてください。」 アーメン。
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